もし、映画だったら
「今日」という
映画
主演は僕
監督も僕
台本はなし
編集もなし
舞台は意思ひとつで無限に広がる仕組み
共演者は今日出会った人全て
制作には膨大な人員が携わる
昼に食べた五目あんかけラーメンの具の海老は
まだ会ったことのない、どこかの漁師さんが命がけで
獲ってきたものかもしれない。いつか会えたらお礼を言おう。
海老だけじゃない。野菜も小麦も全ての材料の生産、流通に携わる人、
売る人、買う人、作る人。
僕の昼ごはんのワンシーンにすら、数かぞえきれないほどの人の労力がある。
ただ、その人達にとって自分もまた欠かすことのできない存在である。
その漁師さんの映画には獲ってきた海老を食べてくれる人が必要だから。
何かをする時、ほとんどの場合誰か他人との関係が生まれる。
その関係性は目で見えることもあるが、大部分が見えない。
でも確実に存在している。
そうやって幾つもの関係を重ねて今日という映画は深みを増していく。
良かれと思ってやったことが、誰かにとっては迷惑だったり、
その逆もある。
そんなすれ違いもまたこの映画にユーモアを与えてくれる。
考えてみると、自分の意思とは関係のないところで描かれていく
シナリオはとても面白い。偶然か必然か。
全く先の読めない展開。即興センス、柔軟さが問われる。
結局なるようにしかならないのだけれど。
肯定的にも否定的にも聞こえるこの言葉。
今日ももうじき完成を迎える。
何もしてない訳じゃないけど、
何かを成し遂げた訳でもない。
でもこれが、僕の今日という映画。
喜んだり、悲しんだり、楽しかったり、寂しかったり、
いろんな感情が生まれた。
人に見せられるほど面白いものでもないけれど、
これが、僕の今日という映画。
華やかではないけれど、僕にしか撮れない、演じれない作品だ。