言うは易し、行うは難し、だが、それを行うことで得られるものの価値は何ものにも替え難し。
「人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。
欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、
要はただそれだけのことだ。
好きなものを好きだという、
好きな女を好きだという、
大義名分だの、不義は御法度だの、
義理人情というニセの着物をぬぎさり、
赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず
人間の復活の第一の条件だ。
そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。」
とは坂口安吾の言葉。
うーん、突き刺さる。
なぜ突き刺さってくるのだろうか。
人間らしさ剥き出しの生き方への憧れか。
制御は人間生活を営む上で必要不可欠なこと。
全てはバランスと言う名の神の掌の上での葛藤か。
もっと今を!今生きているという実感が欲しい!
とは現代に生きる多くの人々が持つ願望のひとつだと思う。
自分にとっての踊りはここと結びつく。
踊りたいという欲求、つまり衝動。
それには”生”を実感したいという欲求が含まれる。
まだ見ぬ自分を発見したい。「自分はここにいる」という主張、人に認められたいという欲求も。
何々を伝えたいということはあくまで二次的なこと。
”生”(せい)を感じたい。まずそこなのだ。
ダンスの美しさ、面白さは”生”(なま)ものであるということ。
命を燃やし、一瞬の輝きに賭けるその生き様にほかならない。
踊っているときは赤裸々で、確かに生を感じられているかもしれない。
だが普段は?
表現は一時の手法ではなく、
生きている限り、生きたいと思う限り常でなければならない。
何を言いたいかというと、
一生懸命生きる為には、素直に、正直に生きる為には勇気が必要なんだ。
この生をより充実したものにするためには、
自分を咲かせる為には、
一切の偽りの衣を脱ぎ去り裸にならなければならない。
ということ。
安吾は俺の中でも生き、そして成長した。